御由緒
熊野那智大社社伝に「神武天皇が熊野灘から那智の海岸“にしきうら”に御上陸されたとき、那智の山に光が輝くのをみて、この大瀧をさぐり当てられ、神としておまつりになり、その御守護のもとは、八咫烏の導きによって無事大和へお入りになった」と記録されております。
命の根源である水が豊富にあふれ落ちる「那智大瀧」を、この熊野に住む原住民の人々も神武天皇御東征以前からすでに神として奉祀されていたとも伝えられていますが、いずれにいたしましても古代からこの大瀧を「神」としてあがめ、そこに国づくりの神である「大巳貴命」(大国主命)をまつり、また、親神さまである「夫須美神」(伊弉冉尊)をおまつりしていたのであります。
その社殿を、お瀧からほど近く、しかも見晴しのよい現在の社地にお移ししたのは仁徳天皇五年(三一七年)と伝えられています。この時、大瀧を「別宮飛瀧大神」とし、新しい社殿には「夫須美大神」を中心に、国づくりに御縁の深い十二柱の神々をおまつりしました。 やがて仏教が伝来し、役小角を始租とする修験道がおこり、古来の神々と仏とを併せてまつる、いわゆる神仏習合の信仰が行なわれるようになりました。
その後、「蟻の熊野詣」といわれる程に全国から沢山の人々が熊野を目指すことになるのですが、中でも、皇室の尊崇厚く、延喜七年(九〇七年)十月、宇多上皇の御幸をはじめとして、後白河法皇は三十四回、後鳥羽上皇は二十九回もご参詣の旅を重ねられ、また花山法皇は千日(三年間)の瀧籠りをなされたと記録されております。
なお「熊野」という地名は「隈の処」という語源から発しているといわれていますが、だとすれば、ここは奥深い処、神秘の漂う処ということになります。また「クマ」は「カミ」と同じ語で、「神の野」に通じる地名ということにもなります。
その「神の里」に詣で、漂う霊気にひたり、神々の恵みを得ようとして、古代から多くの人々が熊野へ、そして那智山へ参詣されています。