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熊野本宮大社

宝物

熊野本宮八葉曼荼羅

絹本着色の巻物。曼荼羅とは中世に熊野御師・熊野比丘尼が熊野の霊威を広く衆生に知らしめる為に用いた仏の世界を凝縮して描いたものである。
様式は密教の胎蔵界曼荼羅の内、中台八葉院と呼ばれるものを採用し、名前にある八葉とは中心部の蓮の花びらが八枚であることに依る。
中台に家津美御子大神の本地仏阿弥陀如来を配し、八葉部に他の御祭神の本地仏を描く。また、左右両肩には神倉の本地仏愛染明王、阿須賀の本地仏大威徳明王を並べ、右上方部には那智滝と千手観音を描いている。
上部は修験との関係を示す吉野・大峰の山々、下方には熊野九十九王子の内五体王子を配し、熊野信仰の体系を端的に表現している。
地は目が細かく上質で、各仏の華麗な表現や彩色が垂迹美術らしい荘厳な雰囲気を醸し出しており資料的のみならず、美術品としても貴重な逸品であるといえよう。
南北朝時代後期~室町時代 (1300年代)
県指定文化財

鉄湯釜

鉄湯釜この釜は『湯立て』といって塩湯(塩水)を煮立てて祭典に奉仕する巫女・神人等に飛沫をふりかけ、お祓いするという神事に使われたもの。
古絵図にも『湯釜』として描かれる。
社伝では源頼朝奉納の品と伝えられているが詳細は不明。
在銘の(銘文のある)釜では東大寺蔵の鉄湯釜に次いで日本で二番目に古い釜である。
熊野三山にはそれぞれ同様の釜が存在するが、完全な形で保存されているのは本宮のみであり、貴重な品であると言える。
建久九年(1198) 鎌倉時代初期 国指定重要文化財

古来鏡は儀式に多く使用され、神社の宝物の中でも独特の位置を占めるようになる。 当社所蔵の鏡は幾度かの災害を経て現在に至り、重要視されたもののみ現存していると思われ、中国・朝鮮からの舶来品が多いという特徴があり、熊野三山他二社の内で鏡を多数所有している熊野那智大社の所蔵鏡が和鏡を中心としているのとは趣を異にしている。 往古和鏡も多く存在したに違いないが、今は確認する術がない。

三角縁神獣鏡

三角縁神獣鏡この様式の鏡は一般の方々にも広く知られているのではないだろうか。 『魏志倭人伝』にこの様式の鏡が倭王卑弥呼に贈られたとする記述があり、邪馬台国の所在地を比定する論争で著名である。 その名の通り縁の形が三角縁式であり、神の像と獣の像を組み合わせた模様となる。 中国では、後漢から三国時代・六朝時代に多く製作され、日本では古い時代の古墳より多く発掘される。 所蔵の鏡も泥と思しきものが付着した状態より、古墳からの出土品ではないかと考えられる。

玄武鏡

玄武鏡四方(東西南北)を司る神である四神(青竜・白虎・朱雀・玄武)の内北方の守護神玄武を象っている。 上部には北斗七星を描いてあるのは、北辰を造化三神に見立ててお祀りする北辰信仰に由来すると思われる。 平安期に北辰信仰が流行し、 現在でも星祭りという形式で伝わっているが、関係する祭祀・行事に使用したものでないかと推測される。

弥生時代後期~江戸初期 県指定文化財

太刀

太刀長さ72.6cm 反1.4cm
周知のことではあるが当社は明治二十二年に未曾有の水害を被り、往事は多数あったと思われる太刀も流出の憂き目に遭い、現存するものは数少ない。
その中でもこの『肥前国忠吉』は際だった存在である。
これは明治十八年(一八八五)に奉納されたもので、寄贈者は明治維新の折の征東軍総裁で将軍家茂に降嫁した和宮の許嫁であった、有栖川宮熾仁親王である。
この太刀は工芸品としての価値も高く、目の細かな板目肌に上品な匂出来の直刃で貴人に相応しい品格を持っている。
銘にある肥前国とは現在の佐賀県。刀工の忠吉の特徴を見事に表現している逸品であると言える。
銘 肥前国忠吉 慶長十年(1605) 江戸初期

熊野本宮并諸末社圖繒

熊野本宮并諸末社圖繒
『権現』と称される神社の社殿は朱塗極彩色の物が大多数であるが、当社も例に漏れず以前は朱塗りの社殿であった。これは鎌倉時代に描かれた『一遍上人絵伝』(京都府歓喜光寺蔵・国宝)に当時の本宮の様子が描写されていることからも容易に想像できる。
しかしこれに描かれているのは現在と同じ白木の社殿である。
何故ならば現社殿が完成した享和二年(一八〇二)の折、両部の風を改めると社伝文書にあり、故意に朱を塗らなかったことが記録されている。
以来三山の内本宮のみ白木社殿で他二社は朱塗となり現在に至る。
この絵図は現社殿が完成した時、記録として描いた物と言われる所以もそこにある。
中でも現在は水害によって流失した中四社・下四社が並び立ち堂々の威容を誇っている様子は、往事を知る貴重な手掛かりである。
年代不詳(江戸中期~後期頃) 縦77cm×横186cm

神額

神額『銘』

(表)

日本第一大霊験所
根本熊野三所権現
豊臣秀頼
(公御再興力)

(裏)

熊野本宮 秀頼様御再興奉行浅野紀伊守殿
飾金物一円山城住今紀州二住林甚五郎作
慶長一八癸巳年八月十九乙巳日

左右に昇竜・降竜を配した木製額に銅板切り抜きの文字を錨止めするという形式をとる。 全体に黄色味を帯びているのは、黒漆が紫外線により黄色く変色をしたためであり、本来は黒漆極彩色の額であったことがわかる。 日本第一とは後鳥羽院が当社を公的に『日本一』と認めた事に依る。当社は秀吉・家康からも日本一を称することを許されている。 浅野紀伊守とは従兄弟にあたる浅野幸長の事。
慶長18年(1613)江戸初期 (県指定文化財)

能面

古来能は神事若しくは寺社の慶事の折行われた田楽に起源をおく。以来寺社のみならず慶事には必ず能の番組が組まれるようになる。 当社の物も慶事の折、度々能興行があったことを示している。たとえば幾度と無く社殿が台風・火事により被害を受け、それを改修する度に能の番組が組まれたことが社蔵文書から読み取れる。 特徴としては番組によってであろうが、大半が小面・曲見・孫次郎等の女性面であり、男系・鬼神系が少ないことが揚げられる。

長霊ベシ見

長霊ベシ見仁王像を象った阿吽の鬼神面のうち『吽』形面の代表の一つ。 その名の『べしみ』とは唇を結んで「ム」と力んだ時の口の状態を示す『へしむ』からの名称である。 前述のように強く唇を結ぶ為、顔が赤らみ目を大きく見開いた表情となる。 長霊とは創作者長霊に因んだ物であり、役所としては大怪盗熊坂長範役の専用面として使われる。

小尉

小尉男性の老人面を総称して『尉面』という。 写真の『小尉』は老神或いはその化身を表現し、役所は家父長的で温厚な老翁であり祝言などの番組によく登場する。 慶事の演目『高砂』に使われているのを目にした方は多いだろう。 この名前の『小』は小面とは同義でなく、この様式の創作者小牛の名に因み『小牛尉』とも呼ばれる。 当社でも慶事の折々に使用されたと見え、かなり消耗が激しい。

小面

小面この面は女系の面の代表である。 『小』は年が若い・優しく美しいという意味合いを持ち、若く美しい女性を表した面であり、基本は王朝時代の貴婦人の相貌といわれる。 役所はやはり前述の通り。 王朝時代は未婚・既婚を問わず成人女性においては、眉を抜いて高眉を描きお歯黒をおく風習があった。 又、黒髪で耳を隠しているのは上流階級の女性は耳を見せてはいけないと言う慣習があったためである。

般若

般若鬼女系の面には三種あり、般若はその二段階目である。 最初は嫉妬により興奮状態にある姿を『生成』という面で表現する。 この時は未だ丸い小さな角があるだけだが、昂じてくると写真のような般若の姿になる。般若になると顔が肉色に変色し、歯列にも大きな牙が生える。又、目が大きく金色に変化するのである。 だが、般若は未だ異質ではあるが人間である。これより嫉妬が強くなると『蛇』と呼ばれる姿となる。これは人間よりも動物の蛇体に近くなっている姿を現していると伝える。 古来女性は怒らせると凄く怖いものらしい。

天神

天神天神とは菅原道真公が神として祀られた際、『天満自在天神』という神名を贈られた事に由来し、菅原公の怒りの表情を表した物とも言われる。 この為、菅公役にも当然用いられるが多くは仏教で言う天部の神の役として使う。 又、天神には大小があって、大天神とは天上の神のことであり、小天神とは前述の天部の神役である。 因みに写真は小天神。

室町時代~江戸時代中期(県指定文化財)

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